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History of MIN-ON

VOL.05 「マリンロード音楽の旅」の歴史

それは"精神のシルクロード"の船旅

三隅治雄氏 特別寄稿

「シルクロード音楽の旅」と並んで民音の代表的な海外文化交流企画「マリンロード音楽の旅」は1984年から1998年まで、8回シリーズで開催されました。タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、ミャンマー、ブルネイ、スリランカの音楽や舞踊、そして歴史を紹介した「マリンロード音楽の旅」。その構成に 携わった三隅治雄氏にシリーズ8作品を語っていただきました。

8スリランカ・ブダワッタ民族舞踊団

ファイナル公演はスリランカ

南海のマリンロードを隔年に旅して16年、ファイナルの第8回公演にはスリランカを選びました。独立50周年を祝賀しての公演でもあります。

スリランカは、インド半島南端から僅か30㎞の、インド洋に浮かぶ島国です。旧称セイロンは紅茶の名でも親しまれていますが、総面積6万5610km2、人口1750万余、その旧都コロンボは、大航海時代以来マリンロード史に名を留めた港湾都市です。

ポルトガルの航海者バスコ・ダ・ガマがアフリカ南端の喜望峰を巡りケニア沿岸のマリンディからアラビア海を経てインド半島南西部のカリカットに到着したのが1498年。以来、ポルトガルは東南アジア産の香辛料と領土を求めて、カリカットに近いゴアを拠点に、セイロン島のコロンボを攻め、更にマレーシアのマラッカを襲撃占領して砦を築き、それまで海上貿易で潤っていたアラブの海商を追い出し、併せて同行の宣教師によるカトリックの布教を行いました。

しかし、セイロン島は、主たる住民が紀元前6世紀に北インドから渡来したシンハラ人で、シンハラ王国を建て、上座仏教に帰依して隆盛を誇っており、また、南インドから遅れて移住して来たタミル人が土地を拓き、ヒンズー教を奉じ、人口では劣るものの勢力の拡大に努めていました。ポルトガルは、そのため威令が全土に及ばず、その後、オランダが、利権の獲得を狙って、まず1641年にマラッカを襲撃し、次いで1656年にコロンボをも襲撃占領して覇権を奪取しました。シンハラ王国は中央山地のキャンディに退いてわずかに王政を維持しましたが、更に、1815年にはオランダに替わるイギリスが来襲してシンハラ王国を滅ぼし、セイロン全島を植民地化してしまいました。まさにマラッカと同じ運命をたどったセイロンですが、以来、南インドからプランテーション労働者として入植して来たタミル人も住民の仲間入りをし、島民は苦難をなめましたが、懸命に生き抜いて、1948年にはイギリス連邦内自治領セイロンとして独立を果たし、更に1972年、連邦加盟の完全独立国となり、国名もスリランカと改め、新たな道を歩むことになったのでした。

ウェス・ナトゥム
ナリラタ「壺の踊り」
ユガ・ナトゥム

太鼓の響き高らかに

独立後のスリランカ国民は、その心意気を文化で誇示しようと様々な運動を展開しています。特に目立つのは音楽と舞踊の振興で、今回来日したブダワッタ民族舞踊団の主宰者クラシリ・ブタワッタ氏は文化省の副ダンス・ディレクターを勤め、国立舞踊団のチーフ・ダンサーとして活躍しながら、伝統舞踊と音楽の継承と創造こそ、わが民族の魂の宣揚であると言い、男女3,000名に及ぶ門下生を自身の研究所で育成し、かつ舞踊団を結成して、既に世界の40カ国以上を歴訪して好評を博しています。

1998年5月11日から6月7日までの19回の公演でしたが、日本初公開とあって、スリランカの魅力を結集したプログラムを組んで観衆を沸かせました。構成はブタワッタ氏で、日本での技術監督は中村眞理氏でした。

ナーガとグルーラ
プジャ・ナトゥム

第1部7曲、第2部8曲のプログラムですが、全編観客を圧倒したのは、様々な太鼓の音、音、音の壮烈な迫力でした。マリンロードの他の国々にも太鼓類は様々あって、その打法にも独得の技巧が凝らされているのですが、スリランカの特色は、音楽の全てが太鼓オンリーで、縦笛などの管楽器が入るとは言え、他国のように多種の弦楽器や管楽器を交えたアンサンブル曲など皆無なのです。

ワデガ・パトゥナ

序幕の「プジャ・ナトゥム」からそうでした。後ろの山台に男性3人が立ち並び、腰に下げた長めの樽型の両面太鼓を平手で打ち鳴らすと、女性の舞踊手達が出て、そのリズムにのって見事な踊りを見せます。両脚を、膝を曲げて大きく開き、両手は二の腕を肩の高さまで上げて両肘を曲げ、指先を柔らかくくねらせる独得のスタイルで踊り抜くのですが、両足のステップが、太鼓の緩急多彩なリズムに応じて多様に変化するのが見ものです。2曲目の「ワデガ・パトゥナ」も、3人の両面太鼓の激しい太鼓にのって、今度はいかつい相貌をした男性が豪快にステップを踏み、太鼓が急調子になると、大きく回転をして荒々しく飛び回ります。日本の神楽の神がかりの激しさを連想します。解説によると、神からの祝福をもたらす踊りで、病気を治すためのものと言います。「デヴォル・ナトゥム」も病気や災厄を払い治す踊りと言い、この他「パンダム・パーリヤ」なども、病気をもたらす悪霊を払うためにわざと悪霊の仮面を被り、太鼓の強烈な音とリズムで躍り跳ねるもので、これも両面太鼓がバックアップします。

ワデガ・パトゥナ

太鼓は生命のシンボル

見るところ、スリランカの人々にとって太鼓は生命のシンボルのようです。太鼓の轟きによって自己の生命を喚起させ、その力で襲いかかる悪も邪気も払い除け、平和と幸せを招来するとの思いがあったとかと思われます。上演した仮面劇「アナ・べラとノンチ」で、王は太鼓で布告を行い、太鼓奏者は社会的に敬われるとありましたが、まさに太鼓は治世の宝器。本公演のフィナーレで、舞台にずらりと並んだ種々の太鼓の輝きと、それを打ち囃す奏者の眼の輝き、演奏の輝きは、スリランカの国の明日の生命の輝きを示すかのようでした。

デヴォル・ナトゥム
フィナーレ/太鼓の合奏

三隅治雄(文学博士)

Haruo Misumi

1927年大阪府生まれ。文学博士。芸能学会会長。独立行政法人東京文化財研究所名誉研究員。一般社団法人日本伝統芸術国際交流協会名誉会長・公益財団法人全国税理士共栄会文化財団常務理事・公益財団法人国立劇場おきなわ運営財団理事・公益財団法人ポーラ伝統文化財団理事・公益財団法人日本民謡協会理事・三菱UFJ地域文化財団理事など。
國學院大學国文学科で折口信夫・西角井正慶に師事。東京国立文化財研究所芸能部長・実践女子大学教授・中野区歴史民俗資料館名誉館長などを歴任。広く国内外の伝統芸能の調査研究に従事し、とくに民俗芸能を伝承学的立場で研究し独特の歴史的体系づけを行い、また、伝統芸能の保存・振興に尽力している。近年は伝統芸能の国際交流に積極的に関わり、一方、伝統芸能に基づく舞台芸術の創造を意図しての創作活動に取り組んでいる。
芸術祭賞等受賞。紫綬褒章受章。沖縄県功労章受章。
主な著書に、「芸能史の民俗的研究」「民族の芸能」「日本舞踊史の研究」「郷土芸能」「祭りと神々の世界」「さすらい人の芸能史」「民俗芸能の芸」「日本の民謡と舞踊」「原日本おきなわ・沖縄の民俗と芸能史」「おどりの宇宙」「神々の国から」など。編著に「民俗芸能辞典」「日本民謡辞典」「全国年中行事辞典」など。