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History of MIN-ON

VOL.05 「マリンロード音楽の旅」の歴史

それは"精神のシルクロード"の船旅

三隅治雄氏 特別寄稿

「シルクロード音楽の旅」と並んで民音の代表的な海外文化交流企画「マリンロード音楽の旅」は1984年から1998年まで、8回シリーズで開催されました。タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、ミャンマー、ブルネイ、スリランカの音楽や舞踊、そして歴史を紹介した「マリンロード音楽の旅」。その構成に 携わった三隅治雄氏にシリーズ8作品を語っていただきました。

0はじめに ~マリンロード音楽の旅~

世界文化史の3つのロード

世界の文化史は、ユーラシア大陸における諸民族の活動と相互の交流が種火となってその輝きを時代と共に地球全体に拡大していきました。そして、その交流の大動脈となったのが、第1に、ヨーロッパ南東部からモンゴル高原・シベリア南西部に至るステップ(乾燥草原)ロード。第2には、西アジアから中央アジアの砂漠地帯に点在するオアシス都市を経て中国西安に至るオアシスロード、第3には、大陸南方のアラビア海・インド洋・東シナ海・太平洋の海上を船が往来するマリンロードです。

第1の道は、紀元前を遡(さかのぼ)る数千年の昔から遊牧騎馬民族が東奔西走し、第2の道は、紀元前2世紀ごろ西から絹を運んだのを契機に東方からも産物を運ぶ隊商の往来で賑わい、第3の道は、昔からの沿岸交易に加え、15世紀以来、欧州船隊の進出で緊張を高める歴史を残しました。第2をシルクロードと呼び、またその名をもって、全てを呼ぶこともあります。

マリンロード音楽の旅〈1〉タイと沖縄~その華麗な舞踊
マリンロード音楽の旅〈2〉
マレーシア~民族の響き、きらめく歌・舞・奏!!

精神のシルクロードの船旅

民音では、これらの道が果たした文化史的意義に思いを寄せ、音楽・舞踊をもってそれを明らめようと、1979年から「シルクロード音楽の旅」シリーズの公演を隔年に行い、更に1984年から「マリンロード音楽の旅」シリーズを前者と一年交互に催すことになりました。

これには、文化の骨髄は人間性の躍動する息吹(いぶき)にほかならず、その人と人との息吹の共鳴にこそ文化交流の原点があり、それが民族も国境も越えて人の心に平和の種子を育む力となるとの考えが基にあり、3つのロードには、数千年来繰り広げられた国・民族の闘争・興亡の歴史はあるとは言え、破壊の跡に残るものは少なく、しかし、その間に起きた人間交流の文化は幾変転(いくへんてん)を遂げながらも燦然(さんぜん)と各地の暮らしの中に生きています。住民が心のよりどころにしている伝統音楽がそうです。伝統舞踊がそれです。それらを顕示したいのが、本公演の意図です。

マリンロード音楽の旅〈3〉
インドネシア 太陽の響き・海の舞
マリンロード音楽の旅〈4〉南海の真珠・フィリピンの詩
マリンロード音楽の旅〈5〉
ミャンマー竪琴の響き・金色の舞

マリンロードも、あの大航海時代の歴史は過去のものとなりました。中心の港湾都市マラッカも、王国時代の宮殿はポルトガルの船団に破壊され、その跡に出来た要塞もやがて来襲したオランダの艦隊に破壊され、それも後続のイギリスに破壊されて、いまは昔の栄光を忘れたかのような港町になりましたが、街には中国系マレ―人を中心にポルトガル系人も残存し、歌舞(かぶ)にはイスラム調のイナンなどが親しまれて、民衆文化は健在です。このような遺(のこ)された音楽・舞踊を、かつて同じロードで触れ合ったとみられる他国の歌舞と並べて見ると、何と、共鳴し合うものがいっぱいあるのに驚きます。それを確かめ合い、「おれたち兄弟だね」と握手する。それによって、かつてのシルクロードでの交情が甦(よみがえ)るのです。民音創立者が言われた「精神のシルクロードの確立」を期待した公演でした。

マリンロード音楽の旅〈6〉
ブルネイ&沖縄 南国の楽園 王朝の雅び
マリンロード音楽の旅〈7〉豊饒なるベトナムの楽舞
マリンロード音楽の旅〈8〉
ファイナル スリランカ・ブダワッタ民族舞踊団

豊かなる海上の道

海洋国日本では、太陽が射し上る水平線のかなたを常世(とこよ)と呼んで生命の故郷と憧憬(しょうけい)し、古代人はそこを目指す船旅に心を躍(おど)らせました。沖縄でも海のかなたを豊穣(ほうじょう)の楽土ニライカナイと仰いで荒波を越えて船を走らせました。外つ国(とつくに)も同様です。東海の三神山(さんしんざん)に不死の薬があると聞いた秦(しん)の始皇帝が徐福(じょふく)を渡海させ、元(げん)の世祖(せいそ)は東方の洋中に宝に満ちた日本国(リーベングオ)があるとして遠征を企て、それをマルコポーロが『東方見聞録』に記したのをコロンブスが読んで黄金国ジパングへの渡航を夢見、思いも掛けずアメリカ大陸を発見したという話などなど…全て、果てしなく広がる海の彼方にユートピアがあると夢想して航海したのが、世界中の島々を拓(ひら)き、異郷人相互の交流を活発にさせた機縁になったのです。

ただそれが、物欲を抱いての探検ならば、発見がそのまま、略奪、独占、征服、植民地化へと転じることとなり、それが襲われた国と島の悲劇を生むことになりました。襲ったのは西欧の国々、襲われたのは南海のマリンロードに沿う国・島と、オセアニア・新大陸の国・島でした。

でも、わずかに救われたのは、海が、大軍団の一挙上陸を許さず、侵略者の統治力が物資、商品の収奪に集中して、民衆社会の行政は地元勢力にゆだねたことにありました。フィリピンしかり、マレーシア・インドネシアしかり。そのため、伝統文化は保存され、民衆は新統治国の文化を自由に吸収し、また結婚も統治人と自由にして、新たな人と文化を生み出したことでした。

日本も、海に守られて、鎌倉時代、大陸を騎馬で席巻(せっけん)した元の大軍勢を波濤(はとう)の中に沈めた話は有名ですが、中でも沖縄は、マリンロードの中の最も美しい生き方を遂げた島でした。琉球王国と名乗った時代、「舟楫(しゅうしゅう)をもって万国の津梁(しんりょう)【架け橋の意】となす」の気概をもって、東アジアの国々に交易船を送り、小粒のような群島ながら南海の貿易センターの役割を果たしました。しかも、西欧の植民地となることもなく、他国と戦いを交えることもなく、それでいて、いつの間にか、本土・中国・東南アジアの文化をことごとく摂取して、汎(はん)アジア的な独得の有形・無形の芸術文化を創造しました。豊かなる海が、波を寄せ、風を寄せ、人を寄せて創り出した文化の典型と言えるでしょう。