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2019/05/22 特別インタビュー

大野俊三氏(トランぺッター)インタビュー

大野俊三 インタビュー
◇トランぺッター
インタビューアー:音楽評論家 高木 信哉

日本が誇るニューヨーク在住のジャズ・トランぺッター、大野俊三の渡米45周年記念コンサートの開催を喜びたい。大野俊三の音楽は、どうしてこれほど魅力的なのだろうか。大野のトランペットを聴いていつも感じるのは、詩情溢れるサウンドと、根底に流れる心温かさである。リスナーの心にすっと入ってくる美しいメロディと、自然だが圧倒的なアドリブ(即興演奏)は見事である。大野は、力強さと繊細さを併せ持った不屈のトランペッターである。単に巧いだけのトランペッターは数多くいるが、大野のような困難を克服してきた人は他にいない。グラミー賞を2度受賞の栄光、人気バンドでの輝かしい大活躍、しかし、交通事故による唇の損傷、重たい病気とも全力で戦ってきた。痛みや喪失に耐えながら乗り越えてきた大野俊三の足跡と真実を自身の言葉で語ってもらおう。

-------渡米されたのは、名ドラマー、アート・ブレイキーからの誘いだったのですか?

◇大野俊三:1973年、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが来日しました。ところが、専属のトランぺッターが突然来日できなくなったので、代わりに私が演奏しました。演奏が終わって、アート・ブレイキーから「ニューヨークに来ないか?」と誘われたのです。1974年3月13日、24歳のとき、渡米しました。渡辺貞夫さんの紹介で、最初は、峰厚介(ts)や鈴木良雄(b)のお家に泊めてもらいました。すぐに川崎燎(g)のバンドに入りました。1974年夏に、ジャズ・メッセンジャーズに参加しました。アート・ブレイキーには気に入られてこう言われました。「お前はニューヨークでやっていける。それは、演奏以外にもすごく豊かな音楽的アイデアを持っているからだ」。とても勇気がでました。メッセンジャーズは人気バンドなので、度々世界ツアーがあります。まだグリーンカード(永住権)を持ってなかったので出国できず、やむなくバンドを去りました。

-------ジャズ・メッセンジャーズでの演奏は各地で絶賛されました。次に、同じく名ドラマーのノーマン・コナーズのバンド、ダンス・オブ・マジックで活躍されましたね?

◇大野:はい。ノーマン・コナーズはジャズ・メッセンジャーズやロイ・ヘインズ(ds)での僕の演奏を聴きに来ていてチェックしていました。ノーマン・コナーズのダンス・オブ・マジックの活動は、順調そのものでした。ツアーの初日には、コナーズ本人がリムジンで迎えに来てくれて感激しました。ちょうどその頃、僕は『バブルス』というオリジナルを書いていて、コナーズは気に入ってくれました。1976年、彼のシングル盤『ユー・アー・マイ・スターシップ』が大ヒットしました。B面は、僕が作った『バブルス』です。100万枚売れ、ゴールド・ディスクに輝きました。これで、有名になりました。当然バンドの演奏曲としても、売り物の1曲になりました。アルバムも発売され、全米チャート2位となり、大人気となって、世界ツアーをしました。3年間ぐらい一緒に活動しました。

-------グラミー賞は、2度受賞されています。日本人ジャズメンでは、初の快挙ですね?

◇大野:1981年12月に、キューバのハバナ出身のパーカッション奏者のマチートに誘われました。1982年1月からフィンランドのツアーに行くから、「参加してくれ」と言われて、バンドに入りました。同じ1982年に、オランダのハーグで、『マチート&ヒズ・サルサ・ビッグ・バンド’82』をライブ録音しました。それが翌年グラミー賞を受賞しました。1983年からは、マイルス・デイヴィスとのコラボで有名なギル・エヴァンスのオーケストラに参加しました。メンバーには、名手、デビッド・サンボーン(as)がいて、それは素晴らしかったです。1986年12月、ニューヨークのスイート・ベイジルで、『バド・アンド・バード/ギル・エヴァンス&マンディ・ナイト・オーケストラ・ライブ・アット・スイート・ベイジル』をライブ録音しました。これで2度目のグラミー賞を受賞したのです。

-------大野さんの有名なオリジナル『Musashi』の誕生の経緯を教えてください。

◇大野:1987年に書いた曲です。『Musashi』とは、剣豪、宮本武蔵のことです。体調不良のためニューヨークで入院していたとき、枕元に偶然吉川英治の『宮本武蔵』の本が全巻ありました。読み出したら、すごく面白かった。武蔵は、困難で不利な状況のとき、むやみやたらに戦わず、周到な計画を練って勝利する。巌流島の佐々木小次郎との戦いの話に共感して作曲しました。武蔵の姿や動きをイメージしました。この『Musashi』が、世界最大級の国際作曲コンペティション(ISC)において、総合グランプリ(Grand Prize)を受賞しました。日本人の受賞は初めてです。また、ジャズ部門のノミネートからも初めてでした。『Musashi』は、ウェイン・ショーターが、すごく気にいってくれた曲でもあります。

-------1996年、扁桃ガンの手術後に、カーネギー・ホールに出演されたのですか?

◇大野:1996年2月、扁桃ガンのステージ4の手術をしました。大変でした。それから4ヶ月後、ジャズの巨匠、ウェイン・ショーター(ts)から、カーネギー・ホールでコンサートするから「出演してくれ」と頼まれました。まだリハビリ中でとても演奏できる状態ではありませんでしたが、「俺が全部カバーしてやるから一緒に舞台に立とう」とウェインさんが言ってくれたので、「やろう」と決意しました。妻に買ってきてもらった「オレンジ色のシャツ」を着て、6月18日、舞台に立ちました。私は、今日を自分の新しい出発の日にしよう。「心の情熱」を表すためにオレンジ色のシャツを着て必死で演奏しました。
(※ウェイン・ショーターとハービー・ハンコックたちと共に最高の演奏を行った大野俊三に、超満員のカーネギー・ホールの聴衆から惜しみない拍手が沸きあがりました。)

-------今回の渡米45周年記念ツアーについて教えてください。

◇大野:どうもありがとうございます。今回は、最高のメンバーを連れてきました。ピアノの野力奏一は、京都生まれ。お父さんが、京都の三条大橋にあった“ベラミ”というナイトクラブで、17人編成のビッグバンドのバンド・マスターを16年もやっていた人です。野力は、高校時代からプロとして活動していました。二十歳で上京し、ジョージ川口のバンドに抜擢されました。1980年代は、渡辺貞夫のバンドに参加し、大活躍して一躍名が知られるようになりました。現在は、人気シンガーのケイコ・リーの音楽監督兼ピアニストを務めている実力者です。ドラムのジーン・ジャクソンは、名門バークリー音楽大学の出身。1993年から7年間もハービー・ハンコックのグループのドラマーを務めました。ベースの古木佳祐は、音楽一家に育ち、10代からプロとして活動している若き実力者なのです。やっぱり、ジャズの醍醐味は、アドリブ(即興演奏)です。素材(モチーフ)がありますが、ジャズを演奏するときは瞬間瞬間の息吹がないとダメなんです。そういうことを大事にしながら、一回一回の演奏を、一曲一曲の演奏を大切に演奏したいです。今、新作アルバムを制作中です。全曲が僕のオリジナルです。今回のジャパン・ツアーでは、スタンダード、童謡民謡、新作アルバムの収録曲などから、しっかり選曲して演奏します。最強のメンバーがいるので、最高の演奏となることでしょう。どうぞご期待ください。

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