HOME > おすすめコンテンツ > Concert Reviews > 尾高忠明指揮/東京フィルハーモニー交響楽団 MIN-ONクラシック・プレミアムを聴く

Concert Reviews

尾高忠明指揮/東京フィルハーモニー交響楽団

MIN-ONクラシック・プレミアムを聴く

宮沢昭男(音楽評論)

初夏にふさわしい爽やかなコンサートだった。(5月11日、東京文化会館)

曲に入る前、尾高はホールの思い出話しにマイクをとった。「物心ついたころ、日比谷公会堂が唯一のコンサートホールだった」。それだけに、東京文化会館の格調ある響きは、芸術の殿堂として、今も尾高の心の宝物だという。

笑いも誘う流暢な語りに、東京と日本の近代史がクロスする。思えば開館が1929年の日比谷公会堂と、1961年の東京文化会館。この間には人類史上、歴史的な悲劇の第2次世界大戦と東京大空襲があった。尾高の話から、ホールの響きが背負って立つ、時代のシンボル的な機能も備わっていることに思い至らされた。それは文化的な断層ともいえるだろう。

尾高は戦後生まれ。先の言葉には戦後第1世代として、平和とともにクラシック音楽を営み歩んできたという感慨深い思いもあるだろう。今や音楽専用ホールが登場した。クラシック音楽が新たなものを伝統とし、それを後世に伝える文化とするなら、各ホールの持つ固有の響きにも、清濁併せ呑むような時代的背景を、音楽とともに後世の者は受け止めたい。

プログラムはモーツァルト「ジュピター」とドヴォルザーク「新世界より」の2曲。

「ジュピター」はモーツァルト最後の交響曲第41番である。愛称「ジュピター」は、同時代の音楽家、興行師として知られるザロモンの命名といわれ、「最高神」を意味する。

この日、オーケストラは2曲ともに14型の編成。だが弦楽部の響きがやや薄く感じられ、最初12型かと思った。現代のホールでは弦楽部が14型、あるいは20世紀の代表的な作品になると、最初から16型を想定して書かれるものが多い。一般的に12型は弦楽5部が約40人、14型50人、そして16型は60人規模になる。

「ジュピター」は、木管が3種類、金管はホルンとトランペット、これにティンパニが加わる。管の構成と次の曲とのバランスから、尾高はそうした響きを作ったのかもしれない。

最初のハ長調の主題は、もっと力強くても良かったかもしれない。しかし、主導権が木管に移ると、尾高の狙いが鮮やかになる。なかでもフルートの旋律線がまろやかに、かつ軽やかな音色に染め上げられ、尾高はモーツァルトの時代の木管の役割を浮き彫りにした。

またリズムの点でも、尾高は東京フィルから興味深い対照性を引き出した。冒頭楽章の4拍子が持つ行進曲ふうのイメージに対して、第2、第3楽章の3拍子リズムとの対比。また同じ3拍子でも、アンダンテ・カンタービレの第2と、メヌエットの第3楽章の性格の違いを映し出す。メヌエット楽想のスラーとスタッカートを巧みに表現して、舞曲のイメージが強まる。舞台に馴染んだオペラ作曲家モーツァルトならではの交響曲に仕上がった。

終楽章はフーガの技法が巧みだ。これもモーツァルトがウィーン入りした成果である。ウィーンでバッハの譜面を収集するヴァン・スヴィーテン男爵邸に彼は入り浸った。尾高はそこに力点を置くかのように、爽快にして力強い展開で「ジュピター」を堪能させた。

次のドヴォルザークも、作曲家最後の交響曲第9番。「ジュピター」が1788年作曲、「新世界より」は1893年の成立である。「ジュピター」はフランス革命前年、「新世界より」は、20世紀も直前に迫っていた。

この2つの間にも、人類史にとって、社会的に大きな断層が横たわる。産業革命がそれである。欧州の顔はこれにより大きく変貌を遂げる。市民が台頭し、中産階級が社会の駆動力となった。もはや貴族社会ではない。資本主義社会の到来により、人々の時間的感覚はもとより、空間的感覚もすっかり変化した。

19世紀の通信と交通の大変革により、「動きと速さと音と光に対する新しい感覚が生じた」と社会学者ダニエル・ベルはいう(『資本主義の文化的矛盾』林雄二郎訳)。

ドヴォルザークの鉄道好きはつとに有名だ。第9番には、蒸気機関車の鉄車輪が駆動する様まで描いたといわれる。生家の前の小さな教会の敷地の向こうに鉄道線路が走り、幼少時にウィーンからプラハ、そしてドレスデンまで開通した。近代技術への着目は、ドヴォルザークにとってまず鉄道からだっただろう。

尾高は14型編成を遺憾無く発揮する。弦の響きに厚みが増した。木管は4種類揃い、ピッコロとコーラングレも加わり色を添える。ホルンが「ジュピター」より倍になり、さらにトロンボーン3本、第2楽章の響きにはチューバも加わる。打楽器はティンパニに、シンバルとトライアングルも活躍する。ダニエル・ベルの「感受性が、直接性、衝撃、センセーション、および同時性を強調する原因」(『前掲書』)とはまさにこれだ。

尾高は推進力を付け、第2楽章のピアニシッシモから終楽章のフォルティッシッシモや、フォルツァンドに到る表現の幅を広げた。同時に、19世紀後半に高まる民族意識の覚醒に連なる郷愁をそそる温かい音楽で公演を閉じた。