
―――まず、シルクロードについて教えてください。
シルクロードをわかりやすく言うと、中国の唐の時代に長安からローマへ向かって、ラクダの背中に絹を乗せた隊商((キャラバン)がオアシスからオアシスをたどって、西へ西へと旅した砂漠の道のことです。
このルートは「オアシス・ルート」と呼ばれていますが、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが「絹の道」(シルクロード)と名づけました。直線距離で約1万3千キロ。地球の一周の1/3にあたる大変な距離です。
また、モンゴルからユーラシア大陸を経由し、トルコへ向かう大草原の道「ステップ・ルート」もありますが、古来、シルクロードは単に交易路というだけでなく、東西の文化交流の道にもなりました。
15世紀末の大航海時代以降、船舶でのより大規模な交易が始まるまで「オアシス・ルート」と「ステップ・ルート」が交易の主要道路だったと言ってよいでしょう。
日本人は「シルクロード」に独特のロマンを感じてきたと思います。井上靖氏や司馬遼太郎氏など様々な作家が、シルクロードに憧憬を抱き、色々な小説をお書きになっている。
私もシルクロードに未知なる世界への憧れを感じてきました。
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| 第一次民音シルクロード音楽舞踊考察団の 旅にて、小泉文夫教授(右)と藤田氏 |
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| 民音シルクロード音楽舞踊考察団 帰国報告記者会見 |
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| 第4回「シルクロード音楽の旅」公演で、当時一触即発の危機にあったソ連(当時)と中国の音楽家が共演した歴史的な舞台 |
―――民音創立15周年を記念した企画として「シルクロード音楽の旅」と題してシリーズをスタートさせましたが、その経緯などをお聞かせ下さい。
1976年に、民音からシルクロードについての企画・演出を依頼されました。
演出については自信がありましたが、シルクロードの民族音楽や舞踊の知識については、私は専門ではありませんので、企画は東京芸術大学楽理科主任教授の小泉文夫さんを推薦いたしました。
企画を進める上でまず現地調査の必要性がありました。シルクロードの中で重要な地域といえる新疆ウイグル自治区や旧ソビエト連邦のウズベク共和国、モンゴルなどは、共産主義という、当時の政治体制により入国制限があったため、日本人の学術調査ができない状況でしたが、調査団の派遣を民音の努力で実現することができました。この地域への調査団派遣は、当時の日本としてはまさに画期的なプロジェクトだと言えるでしょう。帰国後の記者会見ではプレスやテレビ関係者が50人くらい集まりましたからね。
民音の公演では、毎回必ず最低でも3カ国を招聘したことの意義は大きい。いろんな民族芸能に接することができただけでなく、各国のアーティストが一つの舞台で共演することによって、芸術の場と同時に、国境、民族、言語、宗教を超えた友情の場も生まれたからです。
象徴的な出来事は、1985年、同時まだ国境紛争が絶えなかった中国とソ連に働きかけ、その二つの国のアーティストを招聘することに成功しました。ピンポン外交というのを覚えていますね?スポーツの交流によって米ソの冷戦構造に雪どけが生じたわけですが、それに触発されて、民族音楽の交流による芸術の場で、中ソの雪どけという友情の場が創出されたわけです。私はこの第4回公演「遥かなる平和の道」は世界でも前例のない画期的な民音のプロデュースだったと思っています。
「精神のシルクロード」についてお話しましょう。1975年に民音の創立者がモスクワ大学で「東西文化交流の新しい道」と題して講演をされ、国境、民族、言語、宗教を超えた対話こそ恒久平和のための新しい道であると、「精神のシルクロード」について提言されました。
民音がシルクロード企画を立案したのはこの提言に基づいています。が、当初は「精神のシルクロード」をどう顕在化するか、戸惑いがあったものの、「遥かなる平和の道」公演で今後の方向性を見い出すことができました。実は第1回は歌をテーマに、そして第2回は楽器編、第3回は舞踊編、第4回は総集編と4回で終了する予定だったのですが、シルクロード公演をずっと続けてゆくことになりました。










