ノイマイヤーによる古典の新演出、新解釈は、「くるみ割り人形」(89年)、「幻想〜『白鳥の湖』のように」(94年)の上演(日本初演)によって、セリフなきバレエが人間心理の深い表現をなす舞台芸術であることを鮮烈に印象づけた。そして2005年、「眠れる森の美女」が日本初演となり、衝撃的な「くるみ割り人形」上演から15年のときを経て、ノイマイヤー振付けによるチャイコフスキー三大バレエ音楽作品の完結を迎える記念すべき公演となる。“百年の眠り”をモチーフに過去と現在が交錯する、時空をこえた演出がバレエの進化を物語っているといえよう。

ストーリー

〜プロローグ〜


嵐にあって、デジレ王子は森で道に迷う。不安と好奇心が交錯するなか、彼は人間を超えた存在に取り囲まれているように感じる。彼の周囲の雰囲気は、異様なものに変わっていた。彼が遠くに城が見えるように感じると、数秒の間、彼の目の前に眠っている姫の幻影が浮かぶ。彼はめまいを感じる。

〜第一幕〜

デジレ王子が再び気がつくと、そこはあの城の中だった。部屋の中には、彼とともにひとりの美しい女性がいる。デジレ王子は彼女に自己紹介をしようとするが、彼女からの反応がないので、彼女には自分が見えないことに気づく。外では雪が降ってる。

彼が見ていると、彼女はゆりかごに近づこうとするが、ヒステリー症の発作によってゆりかごを突き倒してしまう。ゆりかごは空だった。ひとりの男性が室内に入ってきて、彼女をなだめる。彼が部屋を出ていくやいなや、彼女はひとつの鏡に近づき、それをのぞき込む。鏡には彼女の似姿が映っている。その似姿は、腕の中に子供を抱いている。深い喜びいっぱいに、彼女は奇跡の意味を理解する。彼女にやっと子供が生まれるのだ。

季節は飛ぶように過ぎていく。冬の寒々とした部屋は夏になる。使用人たちがやって来て、部屋に祝宴の飾りつけをする。宮廷のダンス・マスターであるカタラビュットは、目前に迫った洗礼式の準備を監督し、最後の指示を出している。デジレ王子は宮廷の住人に気づかれることなく、その様子を眺めている。

カタラビュットは何人かの女官とともに、今日オーロラという名前で洗礼を受ける幼い姫を賛美するための、アレゴリカルなバレエの稽古を行った。デジレ王子は、来賓が入場する様子を眺め、楽しそうな様子である。最後に美しい女性とその夫がホールに入場してくる。デジレ王子にはそれが王と后であることがわかる。カタラビュットの合図で、祝宴はバレエ「あけぼのの勝利」とともに進められてゆく。女官たちはそれぞれ、幼子に与えられるべき徳を表す星の役を演じている。

ディヴェルティメントの後で祝宴はお開きとなる。最後に王夫妻は、長らく熱望された、愛しい子供にまなざしを向け、オーロラを乳母に任せる。

デジレ王子は驚愕とともに、突然鏡の中から奇怪なものたちが部屋に侵入してくるのを目撃する。彼らは恐怖を抱かせるような、魔術のまじないの身振りとともにゆりかごに近づき、子供に呪いをかける。それは、姫が成長すると、バラのとげに刺されて死ぬという呪いであった。デジレ王子は必死になってこの災いを取り除こうとするが、この世界に属するものではない彼が何をしようとも、効果がない。彼は無力さに
姫に背を向け、愕然として目を覆う。

すると、デジレ王子に気づかれることなく、鏡から善き妖精が現れ出て、邪悪な魔法を封じる。こうしてオーロラは、死ぬことなく、ある王子のキスによって再び目覚めるまで、百年の眠りにつくことになる。この予言を感じたかのように、デジレ王子はオーロラを何としても救おうという思いにかられる。彼は振り返り、鏡の中に成長したオーロラの姿を見つけ、彼女のもとへ急ごうとする。

一瞬にして呪いがとける。女王が何も知らずに部屋に入ってきて、もう一度子供を見つめ、その腕に抱きあげる。

王子はうろたえつつ、さっき目にしたことに思いをめぐらす。

〜第二幕〜

オーロラのおぼろげなイメージが、幼少時から青年期へと、デジレ王子のそばを矢継ぎ早に通り過ぎてゆく。6歳の姫は、カタラビュットにさんざん手を焼かせている。11歳の彼女は、勉強よりも母親の衣類で遊ぶことが好きだ。そしてとうとうデジレ王子は、彼女の16歳の誕生日に立ち会う。王は娘に、彼女に求婚するためにやってきた四人の他国の王子を紹介する。デジレ王子は彼なりに、彼女の気を引こうと努力するが何の効果もない。他の宮廷の住人と同様、彼女にも彼は見えないのだ。

外では盛大な誕生日の祝宴、バラの祭りが始まる。王子たちはこれぞ機会と彼女に求婚しようとする。しかし彼女は、王子たちのいずれにも関心を示そうとせず、デジレ王子はホッとする。ただひとりエジプトの王子だけが、とりわけエキゾチックなバラの花で、つかの間彼女の気を引くことに成功する。オーロラはそのバラを手に取って、うっかりそのとげに刺されてしまい、気を失って床に倒れる。宮廷全体は、深い驚愕で凍りついたようになる。唯一デジレ王子にだけは、エジプトの王子が、子供の姫に魔法をかけたあの悪霊に姿を変えるのが見える。

ゆっくりと全員の金縛り状態が解け、死人のように横たわる姫のまわりに心配した様子で集まる。王は娘を抱き上げ、彼女の寝床へと連れてゆく。すると善き妖精が現れ、その予言を成就する。そして、宮廷全体が眠りに落ちる。

デジレ王子は呆然と立ち尽くす。


〜第三幕〜

気がつくと、デジレ王子は再びひとりで森の中にいる。あの奇妙な出来事のことをもっと知りたいという思いで、彼の頭はいっぱいになっている。彼の目に奇妙な幻影が浮かんでくる。いくつものオーロラの影が見え、最後にはその中心にオーロラ自身が現れる。彼女は彼のことを呼んでいるように見える。デジレ王子は幻影のもとに急ごうとするが、幻影は遠ざかってゆく。そして彼女の像は現れたときと同じようにおぼろげになり、彼の視界から消えてゆく。

心に愛と思慕の思いを抱きつつ、デジレ王子はオーロラを救済することを決心し、魔法のかけられた城へと出発する。彼はあらゆる障害をものともせず、善き霊に導かれるように進んでゆく。そして彼は、彼の前に立ちはだかる邪悪な妖精を圧倒し、迷うことなく城を取り囲む茨の壁を突き進む。ここでは、かつて数多くの若者が命を落とした。

デジレ王子はまっすぐに城にたどり着き、オーロラの寝室へと階段を上ってゆく。しばらくの間、彼は彼女の様子を眺めている。彼女が体を動かし始めると、彼は身を隠す。オーロラは驚きとともに、自分が、崩れ落ちた壁と死んだように横たわる人びとに取り囲まれていることに気付く。彼女は自分がひとりきりだと思い、恐怖にかられて泣き出す。そこで王子は姿を現し、彼女に口づけをする。すると、宮廷全体が眠りから覚める。結婚式の準備が始まる。カタラビュットは忙しそうにすべてを取り仕切り、その日の夜に予定されている婚姻の舞の最初の段取りのことを思い描いている。百年前の祝いの衣装に身を包み、結婚式の来賓が広間に入ってくる。カタラビュットはお得意の式典長をつとめる。そこで、その場を盛り上げ、かつ戒めを表す踊りとインテルメッツォが交差する。

時代様式:あの頃と今

私が演出する「眠れる森の美女」はお伽話の形で、バレエの歴史のひとコマをも語っており、本来のお伽話の題材に埋もれている、われわれの芸術の過去と現代を兼ね備えています。「眠れる森の美女」−それはわれわれのバレエの伝統が再生する力を持っていることと、われわれが昔から受け継いできたものが有する生命力の象徴なのです。チャイコフスキーとプティパは、「眠れる森の美女」によってシンフォニー・バレエという新しい道を切り開きました。

この作品は内容的にも形式的にも劇的な内容とはいえません。この作品はなかば寓意的、なかば神話的な形で、「愛が邪悪な力に打ち勝つ」さまや、「主要な生命力としての愛」を語っているのです。プティパは4つのアダージョを振り付けのコンセプトの土台としており、それらの動きの一つ一つにおいてお互いに結びつけ、ライトモティーフに沿って積み重ねています。それ以外の部分は、これらアダージョを取り囲
む構成の作曲になっています。アダージョは舞台効果の構想の核心として、筋書きが進行する段階を具体化し、物語を中心となる瞬間に集中させ、お伽話の詩の中味を象徴的に表します。そのため「眠れる森の美女」はチャイコフスキーのその他の2つのバレエと異なり、その形式構造を完璧に保っています。

われわれは「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」では、音楽やテーマの内容、そして振り付け表現のいくつかに関心を寄せています。そして「眠れる森の美女」でわれわれが関心を持つのは、その完璧さによって長く受け継がれてきた、完結した芸術性に対してなのです。われわれは19世紀後半の完全に練り上げられた芸術作品を前にしています。われわれがこのバレエ作品の特徴とその完璧さにふさわしい姿勢で臨もうとするならば、シンフォニー部分および、それによって各部分が緊密に絡み合うという作品構造を保ちつつ、一方ではドラマ構造のわれわれにはわかりづらくなってしまった部分は強調する、という困難な課題に立ち向かうことになります。細部を近代化することによって、本質的な部分を見えにくくするようなことがあってはなりません。

茨姫の100年の眠りというメルヘンの中心モティーフを作り出すために、われわれ今日の振付家に与えられた一つのチャンスは、われわれが現在という時点から距離をおいて過去を眺められるということです。「眠れる森の美女」の初演から、もうすぐ100年が経とうとしています。私はプティパの草稿をわれわれの今日の動作言動と対決させました、そして、オリジナルの時代様式と近代の振り付けとを対比させることによって、ペローの原作の魅力を再発見し、あらたに提示できるのでは、と期待しています。ペローはそのメルヘンを彼の生きた時代に設定しました。茨姫の目覚めは彼が生きていた時代を背景として起きたことになっています。心をくだいて慎重に組み込まれた衣装の描写の細部から当時の読者が読み取れたように、茨姫が眠りについたのはそれからちょうど100年前の出来事でした。

プティパと帝国劇場の監督であったフセヴォロジスキーはこのポイントに気づかず、物語を政治的考慮からルイ14世・15世の時代、バロック全盛期からロココにかけての時代に置き換えました。はっきりとした時間のイメージがつかめるほどはるか昔の時代に物語を移し変えたことにより、このお伽話の持つ魅力と特殊性をも醸し出していた時代背景は失われてしまいました。ここに、現代の演出が活躍する余地が生まれます。この芸術作品の健全さは損なわず、しかもオリジナルにある精神をいくつかの点で明快にわかりやすく際立たせることが、全体の枠組みとなり、そこで新しい解釈をあれこれ試すことができるのです。

ジョン・ノイマイヤー