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History of MIN-ON

VOL.04 民音の誕生
~日本の音楽界に、新しい風が吹いた~

日本の歌謡界に新しい風が吹きました

嶋田親一氏 特別寄稿

民音草創期より深く関わって頂いている「テレビ黄金期を支えたプロデューサー」嶋田親一氏に民音の歴史を綴っていただきました。

7テレビ「民音アワー」の
若いエネルギー

~ テレビの抱える課題と宿命 ~

「民音アワー」がテレビでスタートしたのが、創立3年目の1965年(昭和40年)である。この年、民音は財団法人になり、イスラエルよりピアニストを海外初招聘(フランク・ペレグ/ピアノ演奏会)し、月刊「みんおん」の創刊号も出て、民音会館落成式も行われた。あらゆることが一気に動き出したという印象で、若々しいエネルギーがみなぎっていた。

テレビに対する関心と影響にも敏感だっただろうし、今とは時代の感覚が全く違う。スタートは当時のNETテレビから始まり、途中から日本テレビで民音アワー「爆笑ヤングポップス」が発足している。
このテレビ番組の歩みは現在では想像がつかないだろう。
テレビは自由だった。

ここに民音の機関誌がある。音楽番組に挑む勢いと弾むような言葉が印象的だ。
当時の「民音アワー」への宣言と言ってもよい文句をそのまま紹介しよう。
「テレビで『民音アワー』が始まった。“音楽で世界を結ぶ民音”の提供で1月5日から日本TVの日曜日の昼12時15分から30分間、毎週音楽番組が多くあるなかで、民音のような音楽団体が、テレビに出るのはめずらしく、その意味でもビッグニュースといえるであろう。」

「こんにちわバラエティ」デューク・エイセス(1969)
「こんにちわバラエティ」ハマクラ作曲教室より(1969)

まさにこの記事で堂々と発言している通りであり、それが実現出来た時代だった。電波行政が比較的ゆるやかだったし、テレビ局は編成も営業も自由な競争で、各局しのぎを削っていた頃である。
「民音アワー」は民音とテレビ局の共同作業の中で、日曜の昼の時間帯に定着していったように思う。実はこの時間帯、私には強い思い入れがある。今でもはっきり覚えているが、1958年(昭和33年)から、その時間帯は人気の公開コメディ「OK横町に集まれ!」を、生放送で放送していて安定していた時だった。

それは、もうすぐフジテレビが開局するという時で、私は日本テレビに預けられてディレクターとしての修業をしていた。
ライバル局の人間になる私を、スタッフに組み込む日本テレビの懐の深さに今更ながら感服する。いろいろな思い出があるが、そこに若き日のI君という仲間がいた。愛川欽也として大成した彼との出会いもその時である。
後の「民音アワー」になるのがその時間帯だと知った時は、驚きと共に感慨深かった。

「民音アワー」で印象に残るのは「こんにちわバラエティ」で、全編カラー番組として登場した音楽番組だったことだ。レギュラーとしてデューク・エイセス、ザ・キャラクターズ、コメディアンの南利明、人見明、それにお相撲さんだった田子の浦親方。私が特筆したいのは、作曲家の浜口庫之助が大きな存在になっていたということ。

浜口庫之助は1917年(大正6年)生まれで「黄色いさくらんぼ」が作曲家としての初ヒットになり、1966年(昭和41年)の「バラが咲いた」は第1次フォークブームのさきがけと言われた。多くの人に愛されテレビでも人気があった。余談だが若き愛妻になったのは元大映女優、渚まゆみである。番組には、この浜口庫之助という作曲家の「ハマクラ作曲教室」というコーナーがあり、毎月の課題誌に作曲募集し、浜口庫之助が寸評を加え、みんなで応募作品を歌うという企画が話題を呼んでいた。今思っても内容の濃いバラエティー番組で、日曜の昼間らしいアットホームな企画だった。

「歌え!ヒット'70」より(1970)
「歌え!ヒット'70」千賀かほる(1970)

日曜日の昼の時間帯は日本テレビとしては昔から安定していたように見えたが、徐々に各局とも無難なファミリー番組、特に音楽番組が姿を消していくことになる。当然テレビの宿命で番組は年々変化していく。視聴者は常に新しい刺激を求めている。嗜好や価値観が変わっていく。テレビ局がそれにふり廻されているのか、逆に流行へと先導しているのか?ニワトリと卵のように、昔も今も変わらない。大切なのは何が大事かということ。今はっきり言えるのは、テレビは媒体として絶対ではなくなったということだ。

それを考えると、民音の作っていった音楽番組という枠組みは、時代とテレビ局との関わり方、なによりも視聴者との動向に大きく左右されていったのは必然である。「民音アワー」はこうして歴史の役割を卒業していったと私は思う。音楽番組自体、現在はテレビの中で存続しにくい。演歌の世界だけではなく、レギュラー番組も視聴率やその他、厳しい環境におかれ、NHK、民放を問わず、かつての音楽番組全盛時代とは大きく様変わりしてしまった。

「民音アワー」に象徴されるように、テレビという媒体が大きく変化し、インターネットの配信など音楽業界の移り変わりも凄まじい。これからの動向は一日たりとも目が離せないだろう。

民音の音楽活動の場は、ますます、本物志向のなかで大きく重い存在になるに違いない。同時に、これからの時代のテレビコンテンツの確立という課題、全世界に発信し人々を惹きつけ、愛される音楽メディアとしての使命、問題は山積している。今後とも私は大いに期待を持って注目していきたいと思う。(敬称略)

2013年12月22日(日)
嶋田親一