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History of MIN-ON

VOL.06 民音・クラシック音楽50年の歴史

最高の音楽を民衆の手に

青澤唯夫氏 特別寄稿

民音の招聘で初来日した「ミラノ・スカラ座」「ウィーン国立歌劇場」をはじめ、民音クラシックの歴史を音楽評論家の青澤唯夫氏に綴っていただきました。

8民音が招いた名指揮者たち

民音の活動は実に多岐にわたるが、長い歳月にわたって数多くの優れた音楽家を招聘し、私たちみんなを楽しませ、感動させてくれた。なかでも名指揮者があたえてくれた音楽の歓びは、名曲の感銘とともに、多くの人びとにとって特別な思い出となっているのではないだろうか。今回は私の心に強く残る民音ゆかりの指揮者のことを書こう。

ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ズービン・メータ
1969.9.7.(日)東京文化会館
第100回「民音定期演奏会」
指揮:ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス
1974.6.2(日)東京文化会館

1969年9月、ズービン・メータがロサンゼルス・フィルを率いて初来日した。世界で話題の33歳の新進指揮者を民音はいち早く私たちの国に紹介してくれた。

1970年9月には、革新的な協奏曲で作曲家として名高いアンドレ・ジョリベが招かれ、4回の公演があった。大戦後は内省的な作風に転じ、20世紀音楽に大きな足跡を残した人だが、74年にパリで死去。

1974年6月、現代スペインを代表する指揮者ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスが初来日。読響、札響、大阪フィルを指揮して、色彩感あふれる流麗な演奏で評判を呼んだ。当時40歳、マゼールや小澤征爾と同世代の注目株で、私はパレスホテルで彼と話したのだが堂々たる風格を身につけた国際音楽家であった。スペイン国立オーケストラを彼が指揮しはじめた1962年には年間50回だった演奏会が74年には120回に増えたが、まだ人びとの要求を満たしきれない。日曜日の朝には若い人のための低料金のコンサートも開いているが、特定の愛好家だけでなく広く人びとが楽しめるようにしたいのだという。彼が音楽監督を務める国立オーケストラでは毎年、新作を3曲委嘱。オーケストラの運営は経費が嵩みどこの国でも似たような困難を抱えているが、みんなで努力して聴衆を育て、よい音楽をもっと多くの人に知ってもらおうじゃないかと語り合った。その後もよく日本を訪れて親しまれたが、2014年6月に世を去った。

1974年9月、ヴォルフガング・サヴァリッシュ、フェルディナント・ライトナー、カルロス・クライバーがミュンヘン・オペラ(バイエルン国立歌劇場)とともに来日。

ロンドン交響楽団
指揮:アンドレ・プレヴィン
1975.10.26(日)東京厚生年金会館
第156回「民音定期演奏会」
指揮:ヘルベルト・ケーゲル
1979.12.13(木)日比谷公会堂

1975年10月には、アンドレ・プレヴィンがロンドン交響楽団を率いて来日した。近年は指揮者として活躍するチョン・ミョンフンがピアノ奏者として同行。プレヴィン自身もピアノの名手なので、驚いたものである。プレヴィンはジャズ、映画、ポピュラー・ミュージック、クラシック音楽と、多方面にわたって才能を発揮。作曲、アレンジ、指揮、ピアノ演奏のほかに、テレビやラジオでも売れっ子のタレント的側面もあった。『マイ・フェア・レディ』をはじめ数々のオスカー受賞、若者たちのアイドルにふさわしいダンディな身の処し方、彼一流のわかりやすい音楽づくりで、音楽界に新風を吹き込んだ。めざましい才気は、晦渋(かいじゅう)で重厚な作品を指揮する時でさえ随所に息づいていた。

1978年1月、33歳のアンドリュー・デイヴィスが音楽監督を務めるトロント交響楽団とともに来日。ケンブリッジ・キングズ・カレッジ出身のオルガン奏者として出発し、英国指揮者のホープと目されていた。グラインドボーン音楽祭音楽監督、BBC交響楽団首席指揮者なども歴任。

1979年12月、当時の東ドイツからヘルベルト・ケーゲルが来日した。東独の重要な音楽ポストを務めた人だが、社会主義者で、現代音楽のスペシャリスト。翌80年、88年、89年と4度にわたって来日し、深い読譜と表出力を披瀝した。私も2度ほど話す機会を得たが、強い信念をもった音楽家であった。90年に自殺。東ドイツ崩壊後、激変する時流についてゆけなかったのだろうとする意見が多いが、音楽さえあれば不遇でも生きてゆけると思っている私にはショックであった。政変後、ケーゲルには音楽の仕事が来なくなってしまったといわれる。

ケルン放送交響楽団
指揮:若杉 弘
1980.3.29(土)千葉県文化会館
ウィーン国立歌劇場
指揮:カール・ベーム
1980.9.29(月)東京文化会館
イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:レナード・バーンスタイン
1985.9.11(水)NHKホール

1980年3月には、若杉弘がケルン放送交響楽団を率いて〈来日〉して、大歓迎された。ドイツに戻るとすぐにデュッセルドルフのライン・ドイツ・オペラの音楽総監督に就任するニュースが駆けめぐった。81年9月から5年間の契約で年間30回オペラの指揮台に立つという。ヨーロッパの大オペラハウスの音楽監督に東洋人が進出するのはまだ珍しかった時代だけに喝采したものである。

同年9月、長老カール・ベームがウィーン国立歌劇場オペラとともに来日し、圧倒的な存在感を示した。翌81年9月にはクラウディオ・アバドとカルロス・クライバーがミラノ・スカラ座とともに来日。日本のオペラ上演史に残る快挙となった。

1982年10月には、アルヴィド・ヤンソンスが来日。1952年以来レニングラード・フィルを中心に活躍した大指揮者で、かつて東京交響楽団を指揮した数々の名演は語り草になっている。マリス・ヤンソンスの父親。

スペースが尽きてしまった。ほかにもレナード・バーンスタイン、シャンドール・ヴェーグ、フランス・ブリュッヘンなど、民音の招きで来日して名演を繰り広げた指揮者は多い。1994年に広上淳一がノールショピング交響楽団を率いて凱旋公演したのも特記すべきだろう。

イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:レナード・バーンスタイン
1985.9.11(水)NHKホール
18世紀オーケストラ
指揮:フランス・ブリュッヘン
2002.11.20(水)Bunkamuraオーチャードホール
ノールショピング交響楽団
指揮:広上 淳一
1994.9.14(水)神奈川県民ホール

青澤唯夫(音楽評論家)

Tadao Aosawa

音楽評論家。作曲、音楽理論を学び、ピアノ教師を経て評論活動に入る。1967年から新聞、雑誌、百科事典などに執筆。FM放送パーソナリティ、音楽賞選考委員、国際コンクール審査員、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会長などを歴任。日本ショパン協会理事、日本ベートーヴェンクライス理事、日本イザイ協会顧問、浜松国際ピアノコンクール運営委員。著書に『名ピアニストの世界』、『名指揮者との対話』(第17回ミュージック・ペンクラブ賞・最優秀著作出版物賞)、『ショパンを弾く』、『ショパン-その生涯』、『ショパン-その全作品』、『鳴らす力聴く力』など。