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History of MIN-ON

VOL.05 「マリンロード音楽の旅」の歴史

それは"精神のシルクロード"の船旅

三隅治雄氏 特別寄稿

「シルクロード音楽の旅」と並んで民音の代表的な海外文化交流企画「マリンロード音楽の旅」は1984年から1998年まで、8回シリーズで開催されました。タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、ミャンマー、ブルネイ、スリランカの音楽や舞踊、そして歴史を紹介した「マリンロード音楽の旅」。その構成に 携わった三隅治雄氏にシリーズ8作品を語っていただきました。

4南海の真珠・フィリピンの詩

「呂宋(るそん)」と日本

東南アジアの中で日本に最も近い国はフィリピンです。南シナ海と太平洋の間にあり、島の数7,100余、北部のルソン島・ミンドロ島、中部のビサヤ群島・パラワン島、南部のミンダナオ島が主な島で、そのうち、ビサヤ群島のセブ島に、1521年、スペイン国王の援助を受けたポルトガル人マゼラン率いる探検隊が上陸しました。当人は住民に殺され、生き残りが本国に帰り、それがきっかけで、スペインが1556年から植民地経営に乗り出し、中南米の拠点メキシコと繋ぐ東洋の根拠地として漸次勢力を広げていきました。中国もまた、それより以前から交易船が往来し、日本の商船も来て、スペイン船隊がルソン島のマニラに到着した1570年5月頃には、すでに日本人が20名ほど居住していたといいます。その後、スペイン政庁がマニラに建ち、その統治下で日本人町が出来、1620年には人口が3,000人にも達しました。豊臣秀吉が「呂宋の壺」の買占めをはかったのは有名な話で、西欧物産も集まるルソンからの舶来品が日本で珍重されましたが、徳川3代将軍家光の時代、5度にわたる鎖国令が下された最後の1639年の後は、次第に人口も減って、日・比のマリンロードは閉ざされてしまいました。

しとやかなる女性
クリスマス牧歌
マニラのホタ

東洋の中の欧米文化

スペインがフィリピンの経営を始めて、一番に心掛けたのは宗教による人心の掌握でした。この国の住民は、わずかな数の先住民と、異なる言語を分かち持つ数多い新マレー系の民族で、各自異なる土俗信仰を支えに生きていました。スペイン政庁は、それらを全部カトリックに改宗させようと努めたのですが、威令は全土に届かず、先住民は最初から埒外(らちがい)。遠い昔にイスラム教が根付いた南のミンダナオ島やスールー諸島の人々は頑固におのれを守り、結局、それ以外の住民が、町ごとに建つ教会で洗礼を受け、教会暦による年中行事を遵守(じゅんしゅ)して家の生活にまでカトリシズムが浸透しました。住民の85%がカトリック教徒となり、讃美歌を唱和し、祭りの歌舞音楽までがスペイン色に染まるようになったのです。また、人の血も交わってメスティソとよばれる層が倍増しました。

その後、1890年代に起きた反スペイン革命を後押ししたアメリカが1902年以後、統治権を握り、今度は、英語による学校教育が全土に普及して、アメリカニズムの彩色が加わって、いつか基層は南島、表層は欧米風といった感じのユニークな文化に成ったのです。

ラモン・オブサン民族舞踊団

1990年の第4回「マリンロード音楽の旅」にフィリピンを取り上げ、3月から4月にかけて全国公演を行いましたが、出演団体にラモン・オブサン民族舞踊団を選びました。団長のオブサン氏が、一流の舞踊家で人類学者、フィリピンの島々を訪ねて多くの種族の歌舞・習俗を研究・記録し、それらを集積した厖大なデータから母国の伝統音楽・舞踊の保存と再創造を志して、そのための民族舞踊団を結成し、大きな成果を挙げたことに因ります。レパートリーを見て驚きました。時代からいえば古代から現代、空間的には北部から南部。音楽素材は、インドシナ・マレ―・イスラム・オセアニア・西欧の諸要素…と、フィリピンの民族芸能の全容を網羅しています。それを受けて、2時間余の枠内で鑑賞出来るように、仕組んだのが今回のステージです。その構成・演出は大関弘政氏でした。

竹踊り
竹踊り

第1部は、竹から男女が生まれた国の創成神話の景に始まり、首狩りの英雄を讃える先住民の古代の踊りが続く。そこでの平(たいら)ゴングのガンサの微妙な打ちざま、次の、寸法の異なる太い竹筒トガトンを数人が連携して打ち鳴らす見事なアンサンブル、またその次の結婚前の男女の踊りで聴かせるガンサの奏法など、立て続けに原始音楽の妙音が響きます。次に、これも古楽器の竹の口琴(こうきん)クビンが登場。その音をバックにシャーマンの介添えで水浴びの祭儀「清めの踊り」が演じられます。これらは、まさに古代的社会に見る民俗の復元で、研究者も感嘆したことでした。

結婚式のかご踊り

さて、ここからが一転、舞台がスパニッシュ世界に移ります。マンドリン風のバンドゥリアやギターラ・オクタヴィ―ナなど撥弦(はつげん)楽器中心の小編成バンドのロンダーリャの音楽にのって、「女学生」「アンダルシアの散歩道」「マニラのホタ」などのダンスを、姿を洋装に改めた男女がステップも軽やかに踊り、歌い手がタガログ語・スペイン語半々のスペイン風歌曲を歌いました。マゼラン以前と以後の文化を映し出した第1部でした。

第2部は、フィリピンの空間的展望です。ミンダナオ島マラナオ族のアラブ風な歌の伴う結婚式をはじめ、各地民衆社会の祭り歌、ろうそく踊り、ココナツ踊りなどなどを次々に見せ、都会でのギターラ演奏とクリスマス牧歌を聴かせ、ラストにこの国の竹文化を表徴するバタンガ地方などの竹打ちの群舞を繰り広げて幕を降ろしました。

結婚式のかご踊り
結婚式のかご踊り

竹が共鳴するもの

今回は、ラモン・オブサン民族舞踊団のみの出演で、日本の芸能は参加しませんでした。この舞踊団の持つレパートリーがフィリピンを語るのに充分だったからでもありますが、鎖国以来しばらく交流が途絶え、その間スペイン色で染め上げられた音楽、舞踊が、日本との比較をさせ難くしたことも事実です。とは言え、舞台を見た人々が、竹から人が生まれた神話を知り、竹を打ち鳴らす音を聴いて、日本と共鳴するものを感じたとの感想を寄せた方が何人もありました。改めて、そのマリンロードを訪ねてみたいと思いました。

結婚式のかご踊り