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History of MIN-ON

VOL.05 「マリンロード音楽の旅」の歴史

それは"精神のシルクロード"の船旅

三隅治雄氏 特別寄稿

「シルクロード音楽の旅」と並んで民音の代表的な海外文化交流企画「マリンロード音楽の旅」は1984年から1998年まで、8回シリーズで開催されました。タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、ミャンマー、ブルネイ、スリランカの音楽や舞踊、そして歴史を紹介した「マリンロード音楽の旅」。その構成に 携わった三隅治雄氏にシリーズ8作品を語っていただきました。

1タイと沖縄~その華麗な舞踊

ラム・メー・ボット
(古典舞踊・基本の踊り)

きらめく2つの王朝文化

15世紀、西欧のポルトガル・スペインの世界探検を先駆とする「大航海時代」が始まろうとする以前、ユーラシア大陸南方の、アフリカ沿岸からインド洋・東シナ海・太平洋に通じる南海のマリンロードは、アジア諸国の交易船の往来で賑わっていました。東アジアでは、中国の明(みん)の進出が目立ちましたが、その明ともつながって親しく交わった2つの王国がありました。タイと沖縄です。

タイは当時、シャム湾にそそぐ全長1,200キロの大河チャオプラヤ川の上流105キロのアユタヤに首都を置くアユタヤ王朝が勢威を誇っていました。1351年、それまであったスコータイ王朝を併合して建国し、以来1767年まで王政を保って来ましたが、その基盤となったのは、支流ロップリー川・パーサック川との合流点の河港を拠点とする海外貿易でした。後背地の豊富な物資をここに集め、アジア諸国から来航する帆船と交易を行い、また、自国の帆船を諸国に送り、その貿易の利で国の繁栄を支えたのです。

ラム・メー・ボット(古典舞踊・基本の踊り)

一方の沖縄は、14世紀末期には小国家が鼎立(ていりつ)し、1429年に尚巴志(しょうはし)が全島を統一して琉球王国を建て、貿易立国を志し、中国の明と結んだ朝貢関係を軸に、北は日本本土・朝鮮、南は東南アジア諸国に船を遣(や)って交易し、富を築いたことでした。王国はその後1872年まで命脈を保ち、廃藩置県令で沖縄県に改めました。

アユタヤ王国と琉球王国とは、貿易面で特に深い親交関係を持ち、琉球の官船が毎年アユタヤを訪れ、アユタヤもそれに応えました。沖縄の地酒泡盛は、かの地の発酵酒から学んだと言われます。

現代に伝わるタイの伝統芸能は、アユタヤ王朝時代に育まれた宮廷芸能が、現在のラタナコスィン王朝(1782年成立)に受け継がれて練り上げられたものが根幹で、その裾野には国内5地方に分布する多種多彩な民俗芸能があります。沖縄の伝統芸能もまた、琉球王国時代の宮廷芸能が核となり、島々で育った芸能や芝居から生まれた歌舞音曲が妍(けん)を競い合っています。

四ツ竹踊
チューイ・チャーイ・ダンス(古典の踊り)

豪華な競演

その両国の海で結ばれた縁から、「マリンロードの旅」シリーズの第1回をタイと沖縄の競演としました。

1984年7月23日から8月16日までの公演で、出演メンバーは豪華なものでした。タイは、文化省音楽部長のセリ―・ワンナイタム氏を団長に、王立劇場・王立舞踊学校のトップスターが勢揃いしました。沖縄側も、玉城節子・玉城秀子・金城美枝子・佐藤太圭子など第一線の舞踊家と照喜名朝一などの名演奏家が選ばれて華麗な舞台を繰り広げました。構成は私、演出は藤田敏雄氏です。

琉球の典雅な「四つ竹」の群舞で幕を開け、軽快と秀麗を交えた舞踊3作品のあと、タイの宮廷音楽、タイ全土に広がる民衆舞踊の数々、古典舞踊64種の技法展示、仮面劇「ラーマキエン」劇中の「人魚の踊り」、「女神と村娘」のデュエットなど、タイの音楽・舞踊の雅・俗の特質と種別を懇切に呈示する演目を並べました。第2部は、タイの劇と舞踊の魅力をうたい上げるプログラムで、「ラーマキエン」の王子と悪魔の戦闘場面、華麗な「ろうそく踊り」、野趣横溢の「民俗音楽アンサンブル」、豪放な「豊漁・祭り・太鼓」の群舞と続き、それに応えて、沖縄が、男女の愛を奔放に歌い踊る「かなよう天川」を演じ、最後に、タイと琉球が一つになって乱舞する「カチャーシー」で幕を閉じました。

シィーヌアン・ダンス(民衆の踊り)
仮面劇(コーン)「ラーマ王子と悪魔の王トサカンの戦い」より

行き逢えば兄弟
(イチャリバチョウデー)


初日の五反田ゆうぽうとホールは大いに沸きました。観客は、踊る彫刻と讃えるタイ舞踊の優艶美と、情熱の化身と評される沖縄の躍動美に喝采しながらも、タイが見せる指先の細やかな表現やしなやかな肢体の動きと、沖縄舞踊が示すコネリ(指先のわざ)やナヨリ(肢体のくねりわざ)の技法とが似ているのに眼を見張り、また、腰を落しての摺り足が共通するのに驚いたのです。

公演は全国17ステージ。回を重ねるごとに、両国の出演者は互いの芸術の血の通いに、驚きと親愛の情を深め合いました。演奏家も、沖縄の三線(さんしん)が、タイのニシキヘビの皮と象牙の爪を使うことの訳を尋ねて、「お互い昔は兄弟ではなかったか…」と握手し合ったことでした。わけても、沖縄那覇市での公演では、超満員の観衆が沸きに沸いて、フィナーレのカチャ―シ―の乱舞では、タイの出演者も一緒なら、観客も加わっての大乱舞となりました。沖縄の諺にいう「行き逢えば兄弟」の実感をみんなで共有し合ったことでした。終演後、酒好きのセリ―団長ともどもタイの焼酎ラオロンから学んだ沖縄の泡盛で乾杯したことは言うまでもありません。

サーン・サウィン(豊漁の喜び)
フィナーレ(カチャーシーを出演者全員で踊る)