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History of MIN-ON

VOL.04 民音の誕生
~日本の音楽界に、新しい風が吹いた~

日本の歌謡界に新しい風が吹きました

嶋田親一氏 特別寄稿

民音草創期より深く関わって頂いている「テレビ黄金期を支えたプロデューサー」嶋田親一氏に民音の歴史を綴っていただきました。

1民音アメリカ公演…
そして島倉千代子

1963年(昭和38年)10月18日、民音が誕生!今年で50年。私は改めて日本の音楽業界に及ぼした影響の大きさをしみじみ感じている。
演劇界、放送界で生きてきた私は、直接音楽の世界とは関わっていないものの、いやいやその音楽との結びつきは驚くほど濃く、そして深い。それがすべて民音に集約されていく。

「民音歌の大行進」に私のスタッフ達は深く関わっていた。音楽と芝居を融合させるという舞台「民音浪漫劇場」の制作プロデュース、そして私自身も演出した思い出の数々。「月刊みんおん」には2年間連載された異色対談をコーディネートし、司会をした。登場したゲストは47名。今は亡き人もいる。思い出はつきない宝である。

民音は「わたしたちは、音楽芸術を享受する喜びと感動を、より多くの人々と分かちあうために、民衆を主体とした多角的な音楽文化運動を目指しています。」と表明。その言葉はそのまま、私の生き方として共感出来たのである。

第1回アメリカ派遣公演(1966.6)「守屋浩、藤本二三代」
第2回アメリカ派遣公演(1966.12)「島倉千代子」
第4回アメリカ派遣公演(1968.10)「ザ・ピーナッツ」

その一つが、昭和41年から始まった「アメリカ派遣事業」だ。「音楽を通じ国際間の文化交流を推進し、世界の民衆と友誼を結ぶ」とのスローガンのもと行われた企画。写真を何枚も見せていただいた。そこで驚いたのが参加した顔ぶれ。守屋浩、島倉千代子、山本リンダ、有馬徹とノーチェ・クバーナ、ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、村田英雄等々。当時人気を誇った顔ぶれがそろっている。民音が誕生してわずかに3年、そのアイディアの斬新さに、改めて感心させられた。

島倉千代子はこの企画で2回渡米している。写真の中で感激した婦人が島倉千代子の手を両手で握っている。1966年(昭和41年)12月3日、第2回アメリカ公演、島倉千代子28歳か。島倉千代子の人柄が滲み出ている。

島倉千代子。1938年(昭和13年)3月30日、東京は品川生まれ、高校在学中の1954年(昭和29年)コロムビア全国歌謡コンクールに優勝してコロムビア専属となり、翌昭和30年に「この世の花」でデビューした。一躍人気歌手になる。ちょうどその頃、私はニッポン放送でラジオの公開番組を多く手掛けていて週3本は担当。局内で「今、日劇に出演している島倉千代子って子、すごくいいよ。きっと大物になる!」と評判になっていた。島倉千代子18歳か。

劇団新国劇文芸部出身で芝居育ちの私は、ドラマ番組を制作する予定だった。しかし公開番組全盛時代、われわれ若手は駆り出され演出させられる。地方へ巡業し録音することも多く、必ず歌謡曲と二本立てになっていた。
連日、歌手と仕事をすることになり、これは生涯忘れることのできない貴重な思い出につながる。今考えると往年の大歌手が勢揃いしている。 東海林太郎、灰田勝彦、三浦洸一、三橋美智也、若山彰、二葉あき子など。美空ひばり、ディック・ミネとは後年テレビドラマにも付き合ってもらった。

そんな時代に、島倉千代子は現れた。独特の可憐な雰囲気。その歌声。でも私自身は後年歌番組とは離れて、本業のドラマ演出に専念したからすれ違いになった。
ところが、ところがである。その後フジテレビのプロデューサーだった私に政財界と親しい知人から自宅に電話が入った。
「今、島倉に代わるから。相談に乗ってくれ。」「えっ島倉?どこの?」電話の声が替わった。「島倉千代子でございます。」まさにあの独特のイントネーションの可憐な声だった。さすがに驚いた。極めて難しい相談で残念ながらテレビ局としては対応出来なかった。

そして時は流れる。
11月8日、島倉千代子逝去。享年75歳。
走馬燈の如く、若き日の姿と、あの電話のかぼそい声が甦ってきた。テレビから流れる亡くなる前の病床で録音したメッセージと最後の歌声を聴く。
アメリカでのステージ写真が甦ってくる。
民音50年の歴史の重さがズシリと重い。刻み込まれた一駒一駒が胸を打つ。そして歴史は今日もまた未来へとつながっていく。だが、あの島倉千代子の声は生涯忘れることはないだろう。(敬称略)

2013年12月6日(金)
嶋田親一