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History of MIN-ON

VOL.01 民音・指揮者コンクールの歴史

世界に広がる東京国際音楽コンクール
<指揮>

外山雄三審査員長インタビュー

1967年から50年余にわたり続いてきた東京国際音楽コンクール・指揮部門の歴史を、発足当初からご尽力いただいた外山雄三氏に語っていただきました。

―――外山先生には、民音の指揮者コンクール(1988年より東京国際音楽コンクール<指揮>に改称)の発足当初から審査委員としてご尽力を賜り、また1997年からは審査委員長として、コンクールの発展に寄与してくださいました。
本日は貴重なお時間の中、インタビューをご快諾いただき、大変にありがとうございます。民音の指揮者コンクールの歴史やエピソードなどを、お伺いできればと思っております。宜しくお願い申し上げます。
民音の指揮者コンクールの歴史について、簡単にお願いできますでしょうか?

まず、最初に申し上げたいのは、有名な指揮者の名前を冠したコンクールなども世界中にある中で、1967年からスタートして40年以上にわたり、継続してコンクールを開催されてきたことはすごいことだと思う。
今までにも、有名な音楽家の名を冠したコンクールが、いつの間にか消えてしまったということがたくさんあった。
これだけ長く継続してこられたのは、ひとえに民音の皆さまの尽力の賜物だと思う。
また、この指揮者コンクールを開催したことで、日本の指揮界を一つにまとめたと思う。
日本の指揮界は、まず近衛秀麿先生から始まったと言える。
当時は音楽の勉強をしたくても、まず楽譜を手に入れるところからだった。
以前、近衛先生の書かれた書物を読んだ中で、当時徳川家の南葵音楽文庫の中に確かベートーヴェンの楽譜があり、そこから借りられたようだ。
でも親に見つかると怒られるので、押入れに隠れて暗い中で写譜をしたと書いてあったが、今では考えられないくらい、そういった大変な状況で音楽を学ばれてきて、今の日本の指揮界の歴史を築き上げてきてくださった。
その次に、齋藤秀雄先生たちの世代になった。
この時期、指揮者協会というものは存在したが、齋藤先生が設立されたこともあり、派閥とまではいかなくても、齋藤先生の指導性に賛同していない先生方もいらしたので、そういった方たちの門下生も含め、協会に指揮者全員が加入していたわけではなかった。でも、このコンクールが出来たことにより、皆が一堂に会する機会が出来た。そして今日まで、誰の教え子であるとか、そういったことに関係なく、公平に審査が出来ているコンクールを開催してこられたと思う。
歴代の審査委員たちも素晴らしい顔ぶれで、またこのコンクールから優れた指揮者を数多く輩出することが出来た。

第1回指揮者コンクール 本選(1967年)指揮は第一位の手塚幸紀氏
第2回指揮者コンクール 表彰式での審査委員(1970年)
入賞者を激励する齋藤秀雄審査委員長(1970年)左から、尾高忠明氏、小泉和裕氏、齋藤秀雄氏

コンクール事務局が、毎回素晴らしい審査委員を集めてくださることにも感謝している。
私たちは毎回、その時の世界の音楽界を見渡しながら、こういった方に審査委員をお願いできないか、国や経歴もなるべく重なることのないようにとリクエストをするのだが、数年先までのスケジュールが決まっているのが当たり前の海外の音楽家たちにコンタクトを取り、審査委員の依頼をし、受諾していただいていることは本当にすごいことである。
常に私たちにも連携も取ってくださり、また毎回のコンクールが終わるたびに、また平行して既に次回のコンクールの準備をスタートしてくださっている。その姿勢が、完璧な運営につながっているのだと思う。

ただ、私は本当は「インターナショナル」という言葉は使いたくない。「ユニバーサル」であるべき。
なぜなら、「インターナショナル」となると、どうしても“国”というものがクローズアップされてしまう。
でも、本来どこの国出身であるとか、どんな言語を話すかとか、音楽性には全く関係ない。
だから、コンクールの審査の時にも、「オーケストラのメンバーに、言葉で説明してもよい」という表現を参加者に伝えているが、本来言葉で伝えることをしなくても、本人の腕の振り、体の表現ひとつで、どういった演奏を自分がしたいのか、思いを伝えることが出来るのが、指揮者というものである。
もちろん、芸術というものを、コンクールという形で優劣をつけること自体が正しいのか難しい部分も多いが。
ただ、指揮者として、こういった演奏がしたいと楽団に伝えられているかどうかは、見ているこちらも判断できるものである。
それが出来ている人の才能を見出し、世に出していくのがコンクールだと思う。

第4回指揮者コンクール 表彰式(1976年)朝比奈隆審査委員長、J.カルタンバック氏
第7回指揮者コンクール 大綱発表記者会見(1984年)左から、若杉弘、小澤征爾、山田一雄、吉田要(民音代表理事)、朝比奈隆、森正、岩城宏之の各氏。

―――指揮者のコンクールということに、特別な意味はありますか?

世界にも音楽コンクールはたくさんあるが、まず指揮者のコンクールというものがあまりない。
楽器の演奏家なら、個人で先生について練習していくことができるが、まず指揮者というものは、一人では練習が出来ない。
また、世界でも、ブザンソンやトスカニーニといった指揮者コンクールはあるが、他のものは、例えば次回のコンクールに向けて勉強しようと学生が思っていても、残念ながらそのコンクール自体が再び開催されるかどうかもわからない、といった状況である。
そういうものが多い中で、3年に一度というスタンスで、コンクールを開催してきた民音の指揮者コンクールと言うのは、世界中の、指揮者を目指す人たちの中で、大きな目標になっている。

―――民音の指揮者コンクールが、若い指揮者や学生さんたちの目標になっているということですか?

その通りです。
私も、民音のコンクールを目標にしている、と話していた学生たちを知っている。
コンクールに出場し、世に知られていくことで、才能ある人材を音楽界に送りだすことができる。

―――なかなか指揮者のデビューは難しいですね。

コンクールというきっかけがあることで、素晴らしい指揮者が今までにも誕生してきた。
例えば、1982年に入選した広上淳一さんや、2000年のコンクールで優勝した下野竜也さん。
下野さんは大阪フィルで、朝比奈隆先生の下で指導を受けていて、オーケストラの団員からも人気があった。でも、人気があっただけでは世に出られない。
民音のコンクールに優勝し、その後ブザンソンのコンクールでも優勝したことで、世間に注目され、多くの機会を得ることが出来、今では立派な指揮者の一人となった。

ノールショピング・オーケストラを率いて凱旋公演した、広上淳一氏(1994年)
第12回指揮者コンクールで優勝した、下野竜也氏(2000年)

―――1997年から審査委員長としてのお立場になられましたが?

審査委員長とは、審査委員の皆さんの意見をまとめていく調停役のようなもの。 芸術に優劣をつけることは難しいことだが、より審査委員の皆さんからの意見を引き出し、公平に判断することを心がけている。なので、審査委員長の判断で、順位がひっくり返ったりすることはない。なかなか大変な作業であることは事実である。

―――ご自身が指揮者になられた時のエピソードなどがありましたら、お聞かせ下さい。

私が若い時、NHK交響楽団にいたが(指揮研究員)、今思えば、私を今後できることなら指揮者にしていきたいと思って下さった方があって、カラヤンが来日してNHK交響楽団を振った時、指揮の講習会を開催することになり、私もその場に参加させていただいた。
帰国の際、羽田空港まで見送りに行かせていただいたのだが、カラヤンが私を隅の方に呼んで、「もしこれからも君が指揮を勉強していくのであれば、学生のオーケストラでもいい、ブラスバンドでもコーラスでも、ピアノ2台でもいいから、複数の演奏家を使って練習しなさい」と声をかけてくださった。
今思っても、なぜ私に声をかけてくれたのかわからないが、この時のことは今でも鮮明に覚えている。

―――カラヤンも、外山先生の熱意を感じ、また次代を担う若者に何か残したかったのかもしれませんね。そして指揮者の練習というのは、ピアノ2台でも出来るのですか?

 

もちろんたくさんの楽器があるオーケストラを振れるに超したことはないが、最低2台のピアノがあれば出来る。
2人のピアニストに、自分の指揮で同時に最初の音を出してもらう。これだけでも、実は大変なことである。その後2台が合わせて演奏を続けていくことも、簡単なことではない。指揮者の呼吸や手の振り方一つで、複数の演奏家に自分の意思を伝えられるか、そういった練習を行なうことが大切である。

 

―――指揮者によってそんなに演奏が変わるものですか?

まるっきり違う曲になる。コンクールの本選で、全員が同じ課題曲を指揮するが、こんなに音が変わるのかと思うほど違う。 私たちも、その演奏を聴く中で、学ぶことも多い。 是非、今年のコンクールの本選の演奏を聴いてみて欲しい。面白い経験が出来ると思う。

―――以前、コンクールで落選した受験者に、外山先生がアドバイス、というか質問を受けてくださっており、若い方への真摯な姿に感動したことがありました。

参加者を激励する、外山雄三審査委員長(2006年)

本人が聞くかどうかは別にして、何かアドバイスをしてあげたいと思っている。指揮者というのは孤独なもので、なかなかアドバイスを受ける機会がない。
例えば楽器の演奏家であれば、友達を前に演奏をすれば、上手いかどうかの感想は聞ける。
でも、指揮者が「これからベートーヴェンの曲を振るから見ていて」と言っても、見ている側には何がどう違うのかもわからないし、どう感想を言っていいのかもわからない。
でも、審査委員として客観的に見ていて、「あなたがこのように演奏したいのはわかるし、勉強をしてきたのもわかるが、その腕の動かし方ではオーケストラの団員に伝わらないよ」とか、ちょっとしたアドバイスをさせていただいている。
後で、そういうことを言われたな、と思い出してもらって、それが少しでもその参加者の心の片隅にでも残っていれば、本人の為になることもあるのだと思う。
前に私も留学中に師事した先生に、腕の動かし方が硬いと言われたことがある。そんな硬い腕の振りでは、硬い音しか出してもらえないと教えていただいたことは、今でも鮮明に覚えている。

参加者を激励する、外山雄三審査委員長(2006年)

―――指揮者になるために、何を勉強したらいいですか?
また、指揮者とはオーケストラの中でどういった仕事をする人なのでしょう?

前回コンクール表彰式(2006年)での、入賞、入選者と審査委員。中央に、外山雄三審査委員長、第二位入賞の川瀬賢太郎氏

まず、譜面を読めること。
それは、ただ単に楽譜が読めるだけでは、読めたとは言えない。譜面を見て、様々な楽器の奏でる音全体が聴こえてきて、初めて読めたといえる。
あと、楽譜の中にあるメトロノームの速度表示も、それだけが正しいのではない。
例えばその日の気温や湿度によって、楽器の鳴り方も変わるので、それに合わせた指揮ができるかどうか。
あとは、その日のオーケストラの気持ちによって、今日はゆったり演奏しようとか、早めにしようとか判断していくのも、指揮者の仕事である。

実は、オーケストラの団員たちも指揮者の気分や精神状態には敏感で、あるオーケストラのコンサートマスターは、指揮者が指揮台に歩いてくる靴音で、その日の指揮者の気持ちがわかると言っていた。
なので、私はわざと、ゆっくり演奏したい時でもせかせか歩いてみたりして、不意をついてみたこともあった(笑)
時には、指揮者が指揮台に立つだけで、今日はこういった演奏をしたいのだとわかる関係も出来上がる。日本で言ったら、朝比奈隆先生と大阪フィルのような関係。あとは、カラヤンとベルリンフィルなど。
カラヤンは、最終的にはベルリンフィルを追い出された、ということになっているが、楽団全員から嫌われる、なんてことは絶対にない。カラヤンが去る時、悲しんだ団員は少なからずいたと思う。
また、指揮者はオケに嫌われてこそ一人前、とも言われる。でも、そうしたら仕事にならないが…(笑)

また、コンクールの課題曲も、これは若い指揮者が勉強した方がいいと思う曲を選ぶようにしている。
最近はまず、シンフォニーオーケストラの指揮者というのが一般的になってしまったが、元々は指揮者というのはオペラを振ることが第一だった。
ヨーロッパでは、指揮者を目指す時、オペラハウスの練習ピアニストとして入った。練習ピアニストとは、オペラ歌手の練習に付き合うのだが、全体の内容を知らないとできない。
次に、本番前の練習で時々指揮できるアシスタントになり、本番前に歌手たちに、いろいろ注文をつけるポジションになる。
例えば歌手たちに、その役柄の生い立ちや境遇、今何歳なのか、どういう状況でこのシーンに登場するのかなど伝えていく中で、一人ひとりの動きや表現方法を作り上げていく。そういったことを通し、そのオペラの背景などを知ることで、指揮で音を表現できるようになったものである。これは、ヨーロッパの歴史にも関係があると思う。何故かと言うと、ヨーロッパではオペラの題材は誰もが知っていて、演目や登場人物のことを聞くだけで、誰でも答えられるものだから。

前回コンクール表彰式(2006年)での、入賞、入選者と審査委員。中央に、外山雄三審査委員長、第二位入賞の川瀬賢太郎氏

―――背景や人物描写などを知ることによって、より指揮に表現力が生まれるんですね。指揮者はそういうことまで勉強した方がいいのでしょうか?

そこまで出来ればいいと思うが、なかなか今の人はやっていないのでは。でも、そういったことも勉強してみることで、さらに深みを増していけるのではと思う。
あとは、いろんな指揮者の演奏を見る、そして聴くことである。自分が好きな音楽家だけでなく、嫌いな音楽家の演奏を聴くことも大事である。色々な音楽に触れることで、自身をより高めていくことが出来ると思う。

―――ありがとうございました。今年は第15回目を迎える指揮者コンクールが10月26日から第一次予選が始まり、11月1日に本選を迎えます。

今年秋に開催される指揮者コンクール。
指揮者による音楽の違いを是非聴き比べて欲しいし、新しい才能の誕生を楽しみにして欲しい。

外山 雄三(指揮・作曲家)

Yuzo Toyama Conductor

1931年東京生まれ。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)で作曲を学び、在学中の1951年「クラリネット、ファゴット、ピアノのための<三つの性格的断片>」で第20回音楽コンクールに入賞。1952年卒業と同時にNHK交響楽団に打楽器練習員として入団。1954年には指揮研究員となり、1956年9月にNHK交響楽団を指揮してデビュー、以後各オーケストラに数多く客演を開始。1958年から1960年にかけてウィーンに留学。1960年NHK交響楽団の世界一周演奏旅行に同行し、ヨーロッパ各地12ヶ国で演奏。指揮者としてばかりでなく自作の「管弦楽のためのラプソディー」によって作曲家としてもその名をひろめた。
その後1964年、1966年、1979年のNHK交響楽団海外公演を指揮、1979年にはNHK交響楽団正指揮者に就任した。1985年にはニューヨークで開催された国連40周年記念コンサートにNHK交響楽団とともに出演、全世界に放送された。国内では大阪フィル、京都市響、名古屋フィル、神奈川フィル、仙台フィルの要職を歴任。海外でも日本を代表する指揮者・作曲家として、たびたびオーケストラや国際コンクールなどに招かれている。オペラ指揮の分野でも、その緻密な音楽作りが高く評価されており、1999年三善晃作曲「支倉常長<遠い帆>」、2006年一柳慧作曲「愛の白夜」各初演での圧倒的名演が記憶に新しい。これまでに作曲した作品はオペラ、バレエ音楽、ミュージカル、劇音楽、交響曲、協奏曲、管弦楽曲、室内楽曲、歌曲、合唱曲など多岐にわたる。1963年第12回尾高賞、1981年第1回有馬賞、1983年第14回サントリー音楽賞、1999年文部大臣表彰、2000年第48回尾高賞を受賞。現在、NHK交響楽団正指揮者を務めている。愛知県立芸術大学客員教授。